日本財団 みらいの福祉施設建築プロジェクト

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【前編】みらいの福祉施設建築ミーティング<フォーラム>報告

2024年7月6日に渋谷スクランブルホールにて「みらいの福祉施設建築ミーティング ―フォーラム—」が開催されました。そのレポートを3回にわたってお届けします。

会場参加者は150名、オンライン参加者は140名。会場は大盛況でした。

建築家による基調講演、そして福祉の専門家と建築家が登壇する3つのパネルディスカッションが行われ、ゲストの方々の豊かな経験から福祉施設と建築デザインの実践や連携の事例を深く学ぶ場となったフォーラム。応募を検討する方をはじめ、これからの福祉施設のあり方、設計、運営に興味関心を持たれている福祉事業者や設計関係者の参加がありました。

参加者同士の交流も活発に行われていました。

また、会場には普段出会う機会の少ない福祉事業者と建築家との交流の場が設けられ、設計事例の紹介やそれぞれの事業の情報交換などで盛り上がりをみせました。

交流スペースには建築家による模型や資料などが展示されました。

それでは、基調講演と3つのパネルディスカッションの模様を3回に分けてお伝えします。
まずは前編として、基調講演「ひらかれた建築とは」およびパネルディスカッション1「“地域に貢献する福祉施設”へのプロセス」についてのご報告です。

基調講演
「ひらかれた建築とは」

講演

  • 日本女子大学 学長・建築デザイン学部建築デザイン学科教授 篠原聡子氏

住むことに特化した建築がつくられるまで

日本女子大学の篠原です。今回の大きなテーマは「みらいの福祉施設建築」ですが、私は厳密に言うと福祉施設は手掛けたことがありません。そこで今日は、私の研究のフィールド「住まい」に寄せてお話をさせていただきます。

篠原聡子氏

まずは、ユネスコの世界遺産に登録されている「ザンクトガレン修道院」を見てみます。ドイツ南部の街にあり、機能としては教会の礼拝施設、図書館、旅行者のための宿泊施設、学校、病院など入っていました。プランを見ると、薬草ストックの空間や外科的な処置室があったり、患者の隣に医師の部屋があったり、さらにはバックヤードやワインセラーもあり、実に多目的で複合的な役割を果たしていたことが分かります。こうした建物がコミュニティに根差し、また外部との接点にもなっていたというのが、ひとつの建築の姿だったわけです。

また、ドイツのネルトリンゲンという中世の城郭都市を見てみますと、教会や皮革工場、縫製工場があったり、住宅があったり市場があったりと1つのコミュニティの中には多様な機能が混在していました。

そこから近代に向けて、病院は病院、学校は学校、ホテルはホテルと分かれていきました。美術史家のニコラウス・ペヴスナーは著書「建築タイプの歴史」の中で病院の始まりについて「治療空間と入院空間が分かれて素晴らしく機能的になった」と書いています。当時は病人を隔離するための空間が主流だったので、そうした建築は画期的だったと言えます。ちなみに日本もなかなかたいしたもので、同時期に小石川養生所という医療施設ができています。食事が支給され、何日かに一度は入浴ができて、門限付きで外出が可能などしっかりした運営体制があり、半ば住むような建築としてつくられていたような印象を受けました。

改めて、建築の近代とは一体何だったのかといえば、修道院から病院が分かれ、学校が分かれ、ホテルが分かれて、住むための空間もそれとして特化してきた機能分化の歴史だと言えます。それは産業革命以降、都市への人口集中により住環境悪化と住宅難が生じ、第一次世界大戦などの戦争による影響も加わって、効果的に衛生的で健康的な住宅を大量供給しなければならなくなったからです。住むことに特化した、日本においてのニュータウンのようなエリアができたのもこの流れです。そうして商業エリア、工場エリア、住宅エリアとゾーニングされ、健康で安全な住生活が確保されたわけですが、他方で、ある1つの機能にクローズした建築が普及したことによるデメリットもあったと思うのです。

“ひらかれない建築”の功と罪

ドイツの話をしたのですが、その前に日本のことを振り返っておきます。
私が生まれた頃ですと、世帯人数は6人以上という規模感がメジャーでした。おじいちゃんおばあちゃんが一緒に住んでいた時代ですね。そして多摩ニュータウンができた1970年代~80年代頃のスタンダードファミリーというのは、お父さんとお母さんと子どもが2人といった世帯でした。それから日本は少子化とともに世帯分離が進み、世帯が小さくなっていきます。
一方ドイツは、離婚しても自分の親と住む習慣がないこともありシングルでの子育て世帯や単身世帯が多く、また移民の人たちも多い国です。そこで社会から孤立したり、隔絶されている人たちをもう一度繋ぎ直し、コミュニティ全体の安全安心を確保していく必要性が生じ、「多世代の家」がつくられるようになりました。

「多世代の家」というのは、世代ごとにゾーニングして入居募集するという仕組みの集合住宅です。2000年頃から増えていき、2006年よりドイツ政府が「多世代の家プロジェクト」を始めました。「多世代の家」にカフェのような人の集うコミュニティセンターを設置したら人件費として4万ユーロ、日本円にして約700万円を助成するというものです。私が10年前に調査した時はすでに500カ所ほどあり、広がりを見せていました。
たとえばベルリンにある児童養育施設には、安く食事できる場所や、子どもが遊べる場所などがあり、旅行者なども一緒にご飯を食べられる気軽なスペースとして使われていました。非常に興味深いため現地調査をしたところ、高齢者は高齢者で集まり、子育て世帯も他と混ざらず子どもを遊ばせているなどリアルな使われ方が見えてきましたが、だから意味がない、という話ではなく、空間を共有し、過ごし方の情報共有をしていくだけでも意義があると思いました。

今日のテーマである“ひらかれた建築”ですが、なぜひらかれる必要があるかと言えば、むしろひらかれずに空間をきっちりと分離することで衛生や安全を守ってきた結果、別のリスクもつくってきたからだと言えます。
たとえば、マンションのアンケート調査で住人が不安に感じることを挙げてもらうと「周囲にどんな人が住んでいるか分からない」という意見が多数上がってきます。プライバシーは必要、でも周りが見えなのは不安、というわけです。日本のように地震の上に布団を引いて寝ているような国にあっては、物理的な近さにある人たちやコミュニティと関係があることが持続的な社会をつくるために重要であり、それがなし得ていない不安でもあると思います。

ひらきにくい住宅を小さくひらき、外とつなげる

ここからは、私の仕事を紹介させていただきます。
私は神楽坂の奥、矢来町というところに住んでいます。商業エリアに近接する住宅地なのですが、人とつながる場所が徒歩圏内に欲しいなと思い、小さなプロジェクトの中に「ひらかれた場所」をいくつかつくってエリアとしてつなげる試みをしてきました。わたしのオフィスや住まいも入っている小さなシェアハウスや、レストランとコワーキングスペースの入っているシェアハウスや、角打ちのあるシェアハウスなどをつくってみたところ、近所にたくさんある印刷工場の社長さんらが食事に行く前に角打ちに寄って飲んでいったり、家で仕事している人が来てくれたりと、「この地域にこんな人たちがいるんだ!」という発見がありました。また、このスタイルの小さな複合施設は那覇にもつくりました。「SHAREtsuboya」といいます。するとシェアハウス間での交流があったり、海外の先生たちが毎年来てくれるご縁があったりと、遠いところともつながりがつくられるんですよね。住宅はひらきにくい機能ですが、意識的にひらけるスペースをつくることでいろいろ繋がりができることもあるなと思っています。

その際、1階、つまり接地階のつくり方は重要です。その建築がコミュニティや社会とどう接するかを決めるのが接地階だからです。福祉施設であっても商業施設であっても同様ですね。わたしは土間のある農家で育ったのですが、土間はエントランスでもあり、作業場でもあり、食事スペースでもあり、このイメージが私の原風景となっています。

シェアハウスの運営は、メンバーが集まって話し合いながら決めていましたね。物理的な工夫としては本棚も食器棚も中身が「見えるようにつくる」などの知恵を重ねています。また、「SHAREyaraicho」は住宅地の中でファサードを閉じがちでしたが、大通りに面してつくった「SHAREtenjincho」では、中の生活が外に見えていくことを大事に考えて“縦の路地”をつくり、街と住人の生活をつないでみる試みをしています。見えること、可視化することが、人をつなぐことにつながるのかもしれないと思っています。

使い手によって活かされ、変化し続ける

私たちが“ひらかれた建築”をつくるとき、考えたいポイントがいくつかあります。ひとつは、木造の建物はリノベーションしやすくて建築資源を活かしやすいということです。柱をとってしまっても、鉄骨に置き換えて飛ばしてしまって、耐震補強しながらでも形を変えて活かすことができます。
もうひとつは、一緒に食べる空間の重要性です。シンガポールのHDB(公営住宅)のすぐ下にホーカーセンターという屋台村があり、安くて美味しいものを地域内外の人たちが一緒になって食べています。誰とコミュニケーションがとれるか、どう食べられるか。これを考えるのは重要です。
さらに、オープンスペースの確保ですね。シェアハウスにせよ福祉施設にせよ、管理する人される人、サービスする人受ける人、と分けずにそこにいる誰もが自分の居場所だと思えるオーナーシップをどう仕掛けられるかが重要だと思っています。たとえば今調査をしているハノイのKTTという集合住宅では、みんな増築を繰り返しています。日本で真似できるものではありませんが、住戸だった1階部分がカフェになり、カフェは中庭に延長し、そこで結婚式が行われるなど住みこなしていく中で大胆に変化していきます。ベトナムでは結婚式もお葬式も家で足りない部分は通りや広場などへ拡張して行うんですよね。パブリックスペースをコモンズとして使っているということがあります。デザインを手掛ける人も、福祉施設の運営をする人も、こうした例から学べることはたくさんあると思います。

最後にもうひとつ。今年から日本女子大学住居学科を建築デザイン学部建築学科に変えた際、「建築で叶えられることの全て」をというキャッチフレーズをつくったんですね。建築はつくって終わりではなく、その先もフォローすることでもっと多くのことができます。そしてこうしたことは、建築のデザイナーだけの話ではないと思っています。
今日はありがとうございました。

 

パネルディスカッション1
「“地域に貢献する福祉施設”へのプロセス」

ファシリテーター

  • 株式会社マガジンハウス こここ統括プロデューサー/ラボディレクター 及川卓也氏

ゲスト

  • 建築家・株式会社パトラック 代表取締役 安宅研太郎氏
  • 看護師・保健師・医療法人医王寺会 共同代表 志賀大氏
  • 医療法人医王寺会 地域未来企画室部長・看護師・福祉と建築 代表 大谷匠氏

登壇者自己紹介

及川卓也氏(以下、及川)ファシリテーターの及川です。今回は、第3回みらいの福祉施設建築プロジェクトの助成決定事業者の3名にお越しいただき、「にちこれ」プロジェクトについて伺いながら、地域に貢献するこれからの福祉のあり方をディスカッションしていきたいと思います。

私はマガジンハウスにて「福祉を訪ねるクリエイティブマガジンこここ」というメディアを2021年4月から運営しております。「個と個で一緒にできること」というのを1つの合言葉に、狭義の制度的な福祉だけでなく、人と人とのあり方や社会のあり方といった広義の福祉も訪ねていくウェブマガジンです。一方で、様々な方々と協働しながら、福祉領域の課題解決をサポートする「こここラボ」という活動も行っております。

及川卓也氏

志賀大氏(以下、志賀)こんにちは。私はこれまで予防から看取りまでひと通り医療関係の経験と、事業運営の経験をしてきて、今回「にちこれ」プロジェクトの立ち上げに関わっています。今日は、1年目は採択されず、2年目で何とか通過させてもらったというお話ができればと思います。

志賀大氏

大谷匠氏(以下、大谷)

大谷匠と申します。看護師をしつつ、医療法人医王寺会で訪問診療のマネジメントや、「福祉と建築」という団体の運営などをしています。前職も高齢者住宅の運営会社で働いていたこともあり、医療法人が福祉に関わる「にちこれ」プロジェクトが始動する2年前から医王寺会に入職して今日に至ります。「福祉と建築」という活動は、福祉事業者と建築が出会う場や、ともに学び合って良いケアをしていく場をつくる団体です。

大谷匠氏

安宅研太郎氏(以下、安宅)安宅研太郎です。今年50歳です。大谷さんと20歳差があることを、今スライドを見て初めて知りましたが、同じ世代だと思って楽しくやっていました(笑)。大学を卒業後、どこにも勤めずにいきなり事務所をひらき、住宅や集合住宅、企業の研修施設、幼稚園、高校の弓道場など様々なプロジェクトに携わってきました。

2008年から岩手県遠野市にある「クイーンズメドウ・カントリーハウス」という知る人ぞ知る素敵な場所の設計に関わり、次第に運営にも関わるようになりました。高校生や都会から来た大学生と一緒に地域のリサーチを行ったり、建物の施工を行ったりする「遠野オフキャンパス」という活動も続けています。

また現在、遠野の重要文化財である千葉家住宅という大きな曲り家にも関わっています。建物自体の修復・復原工事は文化庁が行っていますが、修理後の展示計画や地域の方々の活用に関わる設計を担当しています。敷地内にとどまらず、この場所を起点に立地する集落全体をどのようにしていったらよいか、地域の人々と一緒に考えるプロジェクトを8年ほど現地に通いながら取り組んでいます。

医療福祉関係の仕事は、2015年に岐阜県岐南町にある「かがやきロッジ」という施設の設計をしたのが最初です。在宅医療の本拠地施設ですが、執務に必要なエリア以上の多目的なスペースをつくっています。理事長である市橋先生の「在宅医療は、将来的には地域住人や元患者家族、他分野の専門家と協力していく形でないと立ち行かなくなる」という考えに基づいています。多目的なスペースの中心に「リビング」があり、大小さまざまなスペースがつながっているという空間配置で、同時にいろいろな活動が行われてもそれぞれが気にならず、自分の居場所だと感じられるような距離感を持って一緒にいられる場所となっています。また、スタッフも訪れる地域の方もみんなが対等な関係で大切にされていると実感できるようなあり方を建築面でも運営面でも実現しています。

その横には「かがやきキャンプ」という重症心身障害児と医療的ケア児のための日中の保育、リハビリ、宿泊のための施設をつくりました。自分では動けない子やバギーで移動する子も回遊できるプランで、見上げると天井に起伏があり、さまざまな模様や明るさの変化があり、移動のきっかけとなる工夫をしています。その結果、家や普通の施設ではあまり動かない子たちが、こんなに動くのかというほど動き始めたと聞きました。

それから、軽井沢にある「ほっちのロッヂ」という小さな医療と福祉の複合施設も設計しました。訪問医療、訪問看護、診療所、病児保育、高齢者のデイサービスが行われていますが、実際には来る人達の属性や目的を意識することはありません。サービスをする側とされる側という区別もなく、来た人がやりたいことを持ち寄ってともに時間を過ごしています。なので大きな場所でみんなで同じ活動をするのではなく、あちこちにある小さな居場所で思い思いのことが行われ、その集積で全体をつくっています。ケアや医療が目的というよりも、ここを通して地域での暮らしや人生が豊かになるような状態を目指しています。以上です。

安宅研太郎氏

応急診療事業から在宅医療事業、そして地域へ

及川 ありがとうございます。続きまして、「にちこれ」のプロジェクトについてご紹介をお願いできればと思います。

志賀 我々は「最期まで笑顔で生きられる街を創る」を理念として掲げ、「笑顔」をキーワードとしています。たとえば、胃ろうをつくれば寿命が1年延びるけれど、ご飯を口から食べない人生を1年過ごすかもしれない、となった時にどんな選択をしていくことがその人らしい最期につながっているのかを一緒に考えるということです。ご家族とご本人の思いが違うこともあります。胃ろうをつくらずに自然な形で最期を迎える選択肢もあります。はじめから正解を決めずに対話の中から一人ひとりの自分らしい人生を一緒に見つけ歩んでいけるような運営を心掛けています。我々は、自分らしく生きられたという実感の先に、最期まで笑顔で生きられる街が見えてくるのではないかと思いながら活動しています。
さて、現在、応急診療事業と在宅医療を行っていますが、応急診療事業が我々の始まりです。休日夜間の救急医療が不足して助かるはずの命が助からない、という問題を当時の市長からご相談いただいたのをきっかけに救急医療を始めました。
ただ、市長が交代すると市の考え方が変わり、「この事業は必要ない」と言われたんですよね。すると地域の方々から声が上がり、約1ヶ月半で8000名の反対署名が集まったんです。地域とともに歩んできたことが実を結んだと、感激した瞬間でした。その後も、医療機関でありながら田植えや獣害対策も行うなど、医療や福祉の垣根を越えて地域の方々とますます親密になりました。

そんな中で「親を自宅で看取りたい」とか「最期は自宅で過ごしたい」といった地域の声が寄せられるようになってきたんです。実際に調べてみると24時間対応で安心して自宅で過ごせる環境が不足していることが分かってきた。そこで24時間体制での在宅医療会議を始めました。現在では、800名以上の利用者様がいるのですが、ここでの経験から誰もが自宅に帰ることができる介護施設を目指そうと「にちこれプロジェクト」の始動に繋がっています。

というのも実際、自宅に帰ると余命宣告より長く生きられる方がとても多く、住み慣れた自宅には、医学では説明できない大きな力があると感じたからです。自宅というのは自分が過ごしてきた歴史そのものであり、その場所に帰ることによって自分の人生が肯定されたと感じ、あるいは孤独感が薄らぎ、生きる意欲が出てくるのだろうと思います。そこで、入所する施設ではなく「自宅に帰るための介護施設」をつくろう、となった次第です。また、医療的ケアを必要とするお子さんたちも同様の思いがあるのだと分かってきたため、0歳から100歳までみんなが自宅に帰れるようにというプロジェクトになっていきました。

プロジェクトを始めるにあたり、市民の方々がどんな思いを持っているか知るために松阪市にある住民自治協議会にお話を聞くと、最期まで住み慣れた自宅で過ごしたいという願いとともに、地域の方々の「用事がなくても過ごせる場所」や「誰かに会える予感がする場所」が欲しい、という願いが伺えました。そこでこの3つを意識して取り組むことになった次第です。とはいえ、診療所と介護施設がある場所(土地)に皆さんが「わーい!」と来ることはないですから、入口的な役割としてカフェを設けることになりました。カフェで過ごしているうちに自然と介護施設の前庭が自分の居場所となっていき、徐々に介護施設に引き込まれていくのではないかという考えです。
また、「用事がなくても行ける場所」というのは、言い換えれば「行く用事をつくってほしい」ということだと考え、何度も訪れるうちに用事がなくても行ける場所になることを目指すことにしました。四季の変化によって表情が変わるビオトープをつくり、介護施設の利用者が運営する駄菓子屋さんをひらき、ポニーやヤギを飼うなどの仕掛けを考えているところです。

安宅 建物の計画についてお話します。敷地は市街化調整区域にあり、水田に囲まれた風景の中にパチンコ屋と元農器具修理工場が建っていました。元パチンコ屋をフルリノベーションして診療棟とし、1階は救急の診療所、2階はオフィスになっています。

診療棟の中にある「多目的道場」と呼んでいるスペースは、庭に面して縁側のような形でつくられています。職員の日常的な利用場所としても、待合室の延長としても使える空間です。カフェは農器具修理工場を改修する予定で、その間に、今回日本財団に応募した介護棟を建てることにしました。これらの建物全体を繋ぐための「つながるテラス」を設けています。敷地の道路側からは、多目的道場や介護棟の「いおうじリビング」(制度的にはデイサービスのスペース)、外のベンチ、ヤギの飼育場所、カフェの座敷席などが見渡せますから、訪れる人々がどこかに自分の居場所があると感じられるのではと考えています。

介護棟は主に有料老人ホームが1ユニット15人、ショートステイが1ユニット15人、それとカンタキ(看護小規模多機能型居宅介護)で構成されています。1層に5人が住む2層建ての建物を敷地内に点在させ、それらの間に、少人数で集えるスペースを設けています。また居住部の共同生活室や食堂は、制度上は15人分のひとつづきの空間としていますが、実際には3か所に分節されています。それぞれにミニキッチンを設置し、5人とその家族程度が集まれるスペースにする予定です。

施設を地域にひらく工夫としては、例えば、いおうじリビングに併設した小上りホールを施設の利用者も地域の方々や子ども、いおうじのスタッフなども利用できるようにしたり、土間の部分で駄菓子屋をやって子どもが入ってきたり、施設の境界があいまいになるように考えています。また、カフェは敷地内にありながらも地域や社会の外部の人々が来る場所なので、利用者や患者という立場を忘れて1人の人間として過ごせる、外出先になるような場所として計画されています。さらに「つながるテラス」は誰もが自分の場所のようにいられるテラスを目指しています。診療所の患者が待合室の代わりに利用したり、カフェ利用者が外席として使用したり、施設利用者もテラスに出て食事をしたりと、いつの間にか様々な目的の人たちがフラットに、当たり前に居合わせる場になったらよいなと考えています。

居場所の選択肢をつくり、安心と自由を確保する

及川 今のお話の中で、「自宅に帰ることを目標にすること」と「医療や介護だけ実現する施設にはせず地域にひらいていく場として転換すること」という2つが掲げられましたが、そこに至る経緯をお話いただけますか?なぜそこまで地域を巻き込むところまでいったのか。

大谷 そもそも地域と一緒に歩んでいくスタンスの法人ではありますが、外から舞い込んできたきっかけもあります。敷地の近所にある松尾神社にお伺いした時、お会いできたのが住民自治協議会会長であり医療法人の事務長のご経験もある方で、「松尾地域の住民が独自でコミュニティタクシーを運営しているが、行き先は病院やスーパーばかり。公共交通機関を使って行ける、みんなの集まれる場所が欲しい」という話をされました。

志賀 また、自宅に帰れない人を減らすためには、病院から退院したときに医療依存度が高い状態から低い状態にしていくことや、退院する家族を自宅に迎え入れる準備のステップを緩やかにすることが必要で、それを実現するには自分たちで施設を持つべきだなと思い至り、今回のプロジェクトにつながっていきました。

及川 もともと医王寺会さんは一次救急医療から始まり、福祉領域、看護領域の事業にも担っていこうという中で、今回の申請では介護棟をつくるというお話なんですよね。介護棟にはどんな事業が入っているのでしょうか?

志賀 事業の内容は、看多機(看護小規模多機能型居宅介護)、有料老人ホーム、ショートステイです。その三つを組み合わせることで、家に帰れない三つの壁「医療依存度の壁」「介護力不足の壁」「自信不足の壁」に対応していくことを考えています。たとえば病院から退院する時にまず、ショートステイの期間を通じて、医療依存度を下げていくことと同時に、ご家族の在宅介護に対する不安を一緒に解決し、さらに、その家に帰るときの「私だけで介護できるか不安」を解消するために“おうち部屋”に実際泊まって介護の練習もして「自信不足の壁」を乗り越えていく、といった流れを想定しています。また看多機では、働きながら介護している方の生活状況に合わせて対応しながら介護環境を整えていきます。
そして有料老人ホームでは、入ったら最後ではなく、いつでも「家に帰る」選択肢を持っていただけるようなサービスを提供する予定です。

及川 そういったケアの空間の余白部分にご家族や地域の方など利用者以外がいられる場所を設計されていますが、どんな風に考えを進めたのでしょうか?

安宅 共同生活室や食堂について話していたときに「自分は飲み屋で5人以下じゃないと喋れない」と志賀さんが言い始めたり、設計者のチームの中におばあちゃんを施設で見守った経験がある人がいて「施設に行くと居場所がないから、顔を見て、割とすぐ帰っちゃった」という話があったりする中であまり大人数で集まるスペースをつくらずに「4-5人が集まるスペース」、「2~3人で親密に話すスペース」などを多様なバリエーションでつくるといいのではと設計案が発展していったかんじです。誰もが安心して居られるためにも、施設をひらいていくためにも、人数や居方に段階的に変化があり、選択肢があることが大事だな、と考えました。そしてそのグラデーションの中で、家族が一緒に居られる場所、地域の方が入ってこられる場所が、関わりの中で設定されていくと考えています。

前例のない福祉施設をつくる苦労

及川 福祉事業者と建築家が協働すると、「プランニングで制度的な要件を満たすこと」と「新しい発想でケアのクリエイティビティを発揮すること」という2つのミッションが衝突するのではないかと懸念されますが、今回の実践ではいかがでしたか?

大谷 建築チームと僕らは、出会ったときからお互いに価値観を伝え合い、一緒に視察に行って共通の価値観をつくってきました。この3人がそれぞれ頑固なので、安宅さんには「今までで一番打ち合わせの量が多い」と言われました(笑)。それくらい時間をかけられるチームだったのが良かったです。

一方で、行政などとのやり取りでは苦労しました。1年目には入院機能を持つプランを考えていたこともあり、地域の医師会からいろいろな指摘を受けてすごすご帰ったこともあります。また県の担当者からは「共同生活室はドーンと構えた方がいい」と指南されるも、5人以上の飲み会が苦手な3人が集まっているので、「そんなところじゃ生きていけません」と押し戻し、条文を調べて解釈を伝えたり、他県の話をしたりと奮闘しました。地域の事情として、三重県では前例がないから通らない、ということもありましたね。

志賀 日本で一番素晴らしい福祉施設を考えた!と思って県に行くと、「県内では前例がない」と言われる。「これじゃないと利用者一人ひとりが居場所を感じながら過ごせる施設にならないんです」と伝えるのですが、「そこはわかるのですが、県の今までの基準には合致しなそうで申し訳ない」と。行政の方も大変だとは思うのですが思い通りの施設をつくるのは難しいです。

安宅 僕らは制度を守るためにつくるのではなく、本当にそこで暮らす人や、働く人がどうあったらいいかという未来の福祉を考えなきゃいけない。本当にこれできたらすごいねと思うものをゼロから立ち上げていますから、今の制度がつくろうとしている環境よりも良いものになっているはずなんです。それが駄目だと言われると「ではどうやって福祉の施設は更新されていくんだろう?」という気持ちになりますね。

大谷 今は仲が良いのですが、県の担当者さんに居室を1つ1つ指さして「ここの部屋に住みたいと思いますか?ここの部屋だったら住みたいですか?」と詰めて話すこともありました。そういう対話を通じて、県の担当者も含めて互いに成長していくしかないということです。

及川 多様な方に来ていただく場所として施設を地域にひらいていくときに、利用者さんの安心感やプライバシーの確保についてはどうプランニングしましたか?

安宅 ひらき方については、一人になれる居室から2~3人がお話しできるスペース、数人が集まるスペース、施設利用者が使えるスペース、地域の人たちや子どもたちも使えるスペースと丁寧に段階を踏んで、選択肢を持てるようにしていて、いきなりひらかないように注意しています。最近はさらに解像度を上げ、たとえば居室もただ閉じこもる場所というよりも、そこでもひらき方を選べるように調整のバリエーションをつくるように考えを進めています。

質疑応答

私は愛知県名古屋市で設計事務所をひらき、第4回目に事業者の方と組んでチャレンジしようと思っております。これからあと2ヶ月くらいで、まだ敷地も見ていない状況ですが、今回の安宅さんたちのチームメンバーは遠隔にいながらどんなツールで検討を進めていましたか?

安宅 基本はオンラインミーティングで、図面や3Dモデルを見せながらやっています。

大谷 視察に一緒に行くなど、リアルな共通体験も大事です。

志賀 最初に考えを文章化したのは良かったですね。それぞれが箇条書きにして、その説明や質問を繰り返してからスタートしました。

申請準備を振り返ってもっとこういうことをしておけばよかったということはありますか?

志賀 最初のプランをつくるとき、地域のニーズを確認するための話し合いが、序盤にはできなかったことです。「介護施設やりたいです」だけでは地域の方々に来ていただくのが難しいですから、ある程度案を決めていなければならない。でも案を詰める作業もあるので申請前まで忙しく、話を聞くのがギリギリになりました。地域の方の話にはヒントがたくさんあるので、できれば早めにやった方がいいですね。

“ひらかれた施設”について。僕自身は群馬出身なのですが、カフェに行ってもお客さんがいないし、交流会館も利用されておらず、場だけつくっても人は来ないと実感しているのですが、どうやって人を集め、来てもらい続けるのか、お考えがあれば教えてください。

志賀 そもそも診療所があるので、訪れるきっかけはそちらにあるという利点はあります。医王寺応急クリニックのユニークユーザー数は年間約1.5万人で、約20万人の医療圏内で我々のクリニックを受診したことがある市民の方が約5万人ということもあり、認知度は高いと思います。それによって施設への滞留が生まれる確率も高くなるだろうというのはあります。また、敷地選定では地域の方の多くが認知している場所を敷地として選び、併設するカフェも三重県の県民性から「ここなら人が来るな」という国道に面した場所を選定するなど工夫しています。

大谷 単純なところでは、まず子どもが来るにはWi-Fiが通っていてswitchができることですかね。クリエイティブな難しいことよりも大事だったりします。

「利用者が“ひらかれた施設”にいると社会復帰する気力が戻る」といった実証がすでにあれば教えていただきたいです。

大谷 施設がひらかれていることで利用者が最高!と思える、みたいな話というより、ひらかれていることはケアにおける機能だと考えています。ケアとは生活を整えていくことで、ひらかれている施設ではそれが叶いやすい、ということです。たとえば、誰もいないところで食事をしていたら何の張り合いもありませんが、人がいるところだからちょっとおめかしをしてみる、そういう生活のメリハリ自体がケアだと言えます。もうひとつ、ひらかれた施設では利用者や介護者という単一の役割から解放され、たとえばカフェや駄菓子屋での高齢者の就労などいろんな役割を持つことが可能になります。ひらかれた環境は、そうした役割が生み出されていくために必要だと考えています。

及川 「にちこれ」が地域の中でどういう生態系をつくっていこうとしているのか、今日のお話で分かっていただけたかなと思います。ありがとうございました。

→【中編】へ続く

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